林芙美子文学碑
  林芙美子文学碑
「いづくにか 吾古里はなきものか、葡萄の棚下によりそいて・・・・いづくにか吾古里を探しみむ」
林芙美子は山口県下関市で生まれたというのが長い間の定説であった。ところが、北九州市門司区に住んでいた故井上貞郎氏の考証によって、明治三十六年新緑の頃に当時の門司市大字小森江555番地(現在の北九州市門司区小森江2―2―1、神戸製鋼所門司工場内)のブリキ屋の板東安吉(通称)の二階で生まれたことが明らかになった。生誕の地は工場の中のために近くの小森江浄水場のそばに建てられたのである。
門司区羽山二丁目小森江浄水場そば
バス通りから矢筈山の方向へ約1km                                                                         昭和49年2月1日建立。
 林芙美子
明治三十六年生まれ。大正七年、尾道高女入学。卒業後、因島出身で明大商科専門部在学中の恋人、岡野軍一を頼って上京。同十二年、岡野は故郷に帰り、日立造船所因島工場に就職。親や親類の反対で軍一は芙美子を棄てた。失恋した彼女は日記を書くことで傷心を慰めたが、これが『放浪記』の原型になった。昭和五年七月、『放浪記』が『新鋭文学叢書』の一冊として改造社から出版されて出世作となる。その後、多くの作品を発表して女流作家の第一線で活躍したが、昭和二十六年六月二十八日深夜、心臓麻痺で急死。